カチオン性色素の吸収波長予測

2021年12月28日公開

2022年3月25日修正

はじめに

時間依存密度汎関数法(TD-DFT)を用いた色素の吸収波長の計算は広く行われています.電荷移動のない中性の色素では良好な結果を与えることが多いですが,電荷移動を伴う場合や電荷を持った色素の場合には当てにならないことも多いです.しかしながら,水溶性の色素の多くは電荷を持っていますので,そのような色素の吸収波長を予測したいこともしばしばあります.

本稿ではメチレンブルーマラカイトグリーンオーラミンOの3種類の色素について吸収波長の計算を試みました.これらの色素は可視域の極大吸収波長が最長吸収波長と一致しており,そのピークの長波長側にはショルダーのようなものは観察されません.

計算手法としては,従来からよく使われている密度汎関数や,吸収波長を予測するために作られた最新のダブルハイブリッド汎関数を用いたTD-DFT法,大きな分子でもCCSDレベルでの吸収波長予測を可能にしたSTEOM-DLPNO-CCSD法を用います.

計算方法

量子化学計算にはORCA 5.0.1または5.0.2を利用しました.吸収波長を計算するために必要な構造はr2SCAN-3cレベルで求めました.なお,いずれの色素も水溶性で,実験的なスペクトルも水溶液のものですので,水の影響をCPCM法で考慮しました.TD-DFT計算はTamm-Dancoff近似(TDA)を適用して行いました.GGAおよびhybird (meta-)GGA汎関数を用いた計算ではdef2-TZVP基底関数を,ダブルハイブリッド汎関数およびSTEOM-DLPNO-CCSDではdef2-TZVPP基底関数を使用して計算しました.こちらもCPCM法により水の溶媒効果を入れています.いずれの計算でもRI近似(RIJCOSX,RI-MP2含む)を適用し,対応するdef2/J補助基底関数およびdef2-TZVPP/C補助基底関数(ダブルハイブリッド汎関数, STEOM-DLNP-CCSDのみ)を用いました.積分グリッドは標準のDefGrid2を用い,DLPNO近似ではTightPNOを設定しました.

電子密度変化のプロットはopen source版PyMOLを用いて行いました.isosurfaceは0.002に設定しました.

結果

波長については実験値を,振動子強度についてはSTEOM-DLPNO-CCSDを参照することにします.

メチレンブルー

メチレンブルーは2つのジメチルアミノ基を有するフェノチアジン誘導体のカチオン部位と塩化物イオンからなる塩です.その水溶液は濃い青色を示します.計算によって求めたメチレンブルーの吸収波長と実験値を表1にまとめます.なお,実験値はOMLCから引用しました.(他の色素も同様です)

表1:メチレンブルーの最長吸収波長.
方法 波長(nm) 誤差(nm) 振動子強度fosc
実験値 664 - -
BP86 529.3 -134.7 0.00357
PBE 529.5 -134.5 0.00348
B3LYP 486.8 -177.2 1.46
PBE0 482.0 -182.0 1.50
BHLYP 465.1 -198.9 1.56
M06-2X 479.3 -184.7 1.52
CAM-B3LYP 479.8 -184.2 1.48
ωB97X-D3 479.7 -184.3 1.44
SOS-PBE-QIDH 588.0 -76.0 1.21
SCS-PBE-QIDH 577.1 -86.9 1.23
SOS-ωPBEPP86 612.1 -51.9 1.13
SCS-ωPBEPP86 613.3 -50.7 1.12
STEOM-DLONO-CCSD 676.8 12.8 0.846

実験的に知られている最長吸収波長は664 nmです.最も近い結果を与えたのはSTEOM-DLPNO-CCSDで,12.8 nmの誤差で予測できています.次点はほぼ同程度でダブルハイブリッド汎関数のSCS-ωPBEPP86およびSOS-ωPBEPP86ですが,50 nm強の誤差があります.また,同じくダブルハイブリッド汎関数のSCS-PBE-QIDH,SOS-PBE-QIDHは更に悪く,その他の汎関数は130 nm以上,場合によっては200 nm近くの誤差を与えており,予測に完全に失敗しています.また,興味深いことに,HF交換の比率の高い汎関数(B3LYP,20%,PBE0, 25%に対し,BHLYP, 50%, M06-2X, 54%),長距離補正汎関数(CAM-B3LYP, ωB97X-D3)で誤差が大きくなる傾向が見られます.

振動子強度に着目するとGGA汎関数のBP86およびPBEは著しく過小評価していることが分かります.それ以外の汎関数はSTEOM-DLPNO-CCSDと比較するとやや過大評価しているように思われます.こちらもSCS-ωPBEPP86およびSOS-ωPBEPP86が同程度で,STEOM-DLPNO-CCSDに最も近い値を与えています.

マラカイトグリーン

マラカイトグリーンは水に可溶な緑色の固体で,トリアリールメタン誘導体の一種です.3つあるフェニル基のうち2つのパラ位にジメチルアミノ基が結合しています.一般に塩化物イオンやシュウ酸イオンとの塩が用いられますが,どちらも同じ色を示します.マラカイトグリーンの実験値と計算結果を表2にまとめます.

表2:マラカイトグリーンの最長吸収波長
方法 波長(nm) 誤差(nm) 振動子強度fosc
実験値 619 - -
BP86 504.8 -114.2 1.39
PBE 505.2 -113.8 1.39
B3LYP 478.9 -140.1 1.46
PBE0 473.2 -145.8 1.48
BHLYP 440.9 -178.1 1.44
M06-2X 466.0 -153.0 1.45
CAM-B3LYP 457.5 -161.5 1.41
ωB97X-D3 450.6 -168.4 0.540
SOS-PBE-QIDH 576.9 -42.1 1.04
SCS-PBE-QIDH 567.8 -51.2 1.05
SOS-ωPBEPP86 582.7 -36.3 0.984
SCS-ωPBEPP86 590.3 -28.7 0.972
STEOM-DLONO-CCSD 668.2 49.2 0.784

最長吸収波長の実験値は619 nmです.最も良好な計算結果を与えたのはSCS-ωPBEPP86であり,誤差は-28.7 nmでした.次点はSOS-ωPBEPP86で,誤差は-36.3 nmでした.一方,メチレンブルーでは良好な結果を与えたSTEOM-DLPNO-CCSDでは49.2 nmの誤差がありました.ダブルハイブリッド汎関数を除くDFTの汎関数はメチレンブルーに続いて110 nm以上も短波長の予測をしており,当てにならないことがわかります.

振動子強度はωB97X-D3のみがSTEOM-DLPNO-CCSDに比べて過小評価,他は過大評価しています.

オーラミンO

オーラミンOはジアリールメタン誘導体で,2つあるフェニル基のパラ位にジメチルアミノ基が,メチレン上にアミノ基が結合しています.ややオレンジかがった黄色を呈する水溶性色素です.オーラミンOの吸収波長の実験値と計算値とを表3にまとめます.

表3:オーラミンOの最長吸収波長
方法 波長(nm) 誤差(nm) 振動子強度fosc
実験値 431 - -
BP86 459.9 28.9 1.09
PBE 460.9 29.9 1.09
B3LYP 410.9 -20.1 1.21
PBE0 399.8 -31.2 1.25
BHLYP 354.3 -76.7 1.34
M06-2X 371.6 -59.4 1.32
CAM-B3LYP 366.7 -64.3 1.30
ωB97X-D3 352.1 -78.9 1.31
SOS-PBE-QIDH 419.1 -11.9 1.09
SCS-PBE-QIDH 415.3 -15.7 1.10
SOS-ωPBEPP86 411.5 -19.5 1.08
SCS-ωPBEPP86 416.0 -15.0 1.07
STEOM-DLONO-CCSD 447.0 16.0 0.876

最長吸収波長の実験値431 nmに対し,SOS-PBE-QIDHは-11.9 nmの誤差で予測しました.また,SCS-ωPBEPP86は-15.0 nm,SCS-PBE-QIDHは-15.7 nm,STEOM-DLPNO-CCSDは16.0 nmの誤差で予測しました.BP86, PBE, B3LYP, PBE0のような従来から用いられている汎関数でも実験値に比較的近い結果を与えています.一方で,HF交換比率の高いBHLYP, M06-2X,長距離補正されたCAM-B3LYP, ωB97X-D3は60 nmから80 nm近い誤差がありました.

振動子強度はいずれの汎関数も過大評価していますが,ダブルハイブリッド汎関数とGGA汎関数がSTEOM-DLPNO-CCSDに最も近い結果を与えました.

考察

吸収波長予測の正確さ

3種類の色素の実験値と計算値から平均絶対誤差を計算しました.その結果を表4に示します.

表4:3種類の色素についての平均絶対誤差(MAD).
方法 MAD
BP86 92.6
PBE 92.7
B3LYP 112.5
PBE0 119.7
BHLYP 151.2
M06-2X 132.4
CAM-B3LYP 136.7
ωB97X-D3 143.9
SOS-PBE-QIDH 43.3
SCS-PBE-QIDH 51.3
SOS-ωPBEPP86 35.9
SCS-ωPBEPP86 31.5
STEOM-DLPNO-CCSD 26.0

STEOM-DLPNO-CCSDは26.0 nmと非常に小さなMADを示しました.次点はSCS-ωPBEPP86でMADは31.5 nm,その次はSOS-ωPBEPP86でした.SCS-PBE-QIDH, SOS-PBE-QIDHも他の汎関数に比べれば良好な結果を与えています.興味深いのは,ωPBEPP86と異なり,PBE-QIDHではSCSよりもSOS variantのほうが良好な結果を与えているところでしょうか.

B3LYPやM06-2X,CAM-B3LYPなどのよく用いられる汎関数のMADは110 nmを超えています.これらの汎関数は電荷を持たない分子に対しては比較的良好な計算結果を与えますが,今回計算を行ったカチオン性色素の計算には向かないようです.一方で,BP86やPBEは約93 nmに収まっていました.これらの汎関数は一般に計算される吸収波長が長波長過ぎる傾向があるのですが,今回はその傾向が功を奏したようです.

ちなみにSTEOM-DLPNO-CCSD/def2-TZVPPレベルの計算はかなりのリソース(例えば200 GB以上のメモリ)が必要になるうえ数時間の計算時間を要します.一方,RI-SCS-ωPBEPP86/def2-TZVPPだと数十分で計算が終わりますので,正確さと必要な計算リソースのバランスが優れています.

電子密度差

ダブルハイブリッド汎関数以外の汎関数の計算結果があまりに実験値と合わないことから,励起による電子密度変化自体が正確な手法と異なっている可能性が考えられます.そこで,励起に伴う電子密度差を可視化することにしました.マラカイトグリーンはダブルハイブリッド汎関数であるSCS-ωPBEPP86で良好な見積もりが出来ていますので,その結果とB3LYP, BHLYPの結果を比較することにします(図1).

図1:異なる汎関数により求めた励起に伴う電子密度差(isosurface 0.002).

よく見ると違いがありますが,間違い探しレベルの差異しかありませんでした.わかりやすいのは無置換のフェニル環の違いくらいでしょうか.このことから,電子密度の変化自体は計算結果が実験値と大幅にずれる汎関数でも問題なく計算できていることが分かりました.なお,電子密度差には2次摂動の効果は含まれませんが,2次摂動により電子密度差が定性的に変化する場合には摂動による補正が破綻しますので,計算結果が妥当である限りにおいては問題ないと考えられます.

結論

従来から広く利用されている密度汎関数,最新のダブルハイブリッド汎関数,STEOM-DLPNO-CCSDによって,メチレンブルー,マラカイトグリーン,オーラミンOの3種類の色素について水溶液中における最長吸収波長を求めました.その結果,STEOM-DLPNO-CCSDが最も正確な予測結果(MAD 26.0 nm)を与えました.色素によってはダブルハイブリッド汎関数のほうが実験値に近い結果を与えることもありました.今回試した汎関数ではSCS-ωPBEPP86が最も信頼できることが分かりました.今回の分子に対しては,SCS-ωPBEPP86は必要な計算リソースと正確さを両立した優れた汎関数であると考えられます.